日々雑感

アート情報を中心に、発信しています。その他、旅のレポートやブックレビューなど。

ターナー 風景の詩

昔から大好きなターナー
私の彼のイメージは、情緒的で、どこか日本的にも通じる精神性を持った風景画家、出会った。
今回の展覧会では、その意を強めつつ、さらに幅広い彼の創作と、作品の精神性、そしてその変遷を見ることができた。

 ●ターナーと海
海とは、彼の作品を象徴するといっていい重要なモチーフであり、主題である。
彼の生きた時代は、ナポレオン戦争の時代であり、英国が海を通じて大国となっていった時代でもある。それは冒険、勝利、征服、栄光と結びついていた。
一方、産業革命とそれ以前の中世世界のはざまに位置する時代でもある。
航海は大航海時代の象徴であるとともに産業革命によって獲得された技術をもって世界に乗り出す象徴でもあり、かつまたそれ以前からより脆弱な人間が危険を冒しつつ旅に出る、という行為でもあった。
彼の、海、そして航海に対するノスタルジックな雰囲気は、そんなアンビバレンスな時代精神を良く表している。

 

●風下側の海辺にいる漁師たち、時化模様
この作品が、海と人間の格闘という観点で最も胸を打った。
激しい波しぶきがたっている。それほど深い部分でないが、風が強く波が激しく打ち寄せている。
漁師たちは、題名のごとく、風下におり、岸から沖合に出ようとしている時点で砕ける波に押し返されて四苦八苦しているようだ。「こんなはずじゃない」「しっかりしろ」慌てふためく男たちの声が聞こえてきそうである。
その向こうには少し大きな帆船が見える。漁師たちの小さな漁船よりは大きいため無事に航海をしているように見えるが、やはり大きく傾き、船が揺れている。舳先に小さく人の頭が見える。バランスを取ろうとしているのか。相当焦っているに違いない。

天気は、曇り。分厚い雲の向こうに少し太陽の光がのぞいているが、晴れてはいない。穏やかな気象を期待させつつもそれがまだ遠いことを無情に告げるかのごとき雲。
沖合は、もっと気象があれているのであろう。もしかしたらこの波もその嵐がもたらしたものかもしれない。
迫りくるかもしれない嵐の予感、遠い順天、この空と雲は、波に劣らずもう一つ、漁師たちの前に立ちはだかる無情な自然である。

彼の意匠と人間に対する深い眼差しがこもる一作

 

 

 

ルツェルン川越しに見えるピラトゥス山
淡い光の向こうに微かに山が見える。
なぜこれほどまでに、淡く描いたのか。
淡い、と表現したが、かなり眩しく卑近な言葉を使えば殆どホワイトアウト状態の作品。実際にこのような光の状態で山が見透かされることは恐らくないのではないだろうか。ということで、この描写は、画家のアレンジ?がかなり加わっていると推察される。
抽象的で、精神性の高い作品。
多くの風景画に、思いを込めつつ描いていった末に、余計なものがそぎ落とされてその核心部分だけが残ったような趣である。

ある意味、題材を通じて精神性を追い求めた末の極致なのであろう。
例えば印象派のような人達とは、全く異なるプロセスを経てはいるが、光に行きついている点では同じ。
人間は、やはり光に帰っていくのであろうか。

 

 

●作風の変遷
この人も、作風が大きく変遷した画家の好例であると思う。
一流の画家で、ずっと作風が変わらないという人はあまりいないと思う。
変転を続ける、というのはしかし、ぶれる、のとは違う。
実験を繰り返しながら、少しずつ目指す表現と精神性の高みへとたどり着いていく。
そのたどり着いた先に、その人を最も良く表す様式なり、形なり、意匠があるのであろう。
それが結果として元の形を維持したりそこに立ち返ることだとしても、その模索と変転があってこそ、落ちるものは落ち、就くものはついて、本当に我々がイメージする、人口に膾炙した巨匠の作風とは、決して誤りではないが、そこに行きつくには長い時間と変転があり、そして水中に沈む氷山の胴体のようにそれを支える大きなバックラウンドがある。

必要なものが残り、余計なものがそぎ落とされていく極致。
死ぬ間際には、こうでありたい。