日々雑感

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古典について

最近、古典を読んでいる。論語、大学・中庸は昔から読んでいるが、それに加えて史記列伝に手を出した。

 古典を面白いと、この年になってようやく感じられるようになってきた。

古典を読んでいる、というより読めるようになったというべきか。

古典を読めるようになった、というより意味を見出せるようになった、というべきか。

 

 古典の面白いのは、読むごとに違う言葉、部位が心に響く、ということだ。これまで気にもならなかったところに目が留まり、また読み込んでいたつもりのところがこれまでと全く違う印象、含蓄、行間をもって迫ってくる。まるでこちらの人間性を見透かし、値踏みをしているかのようだ。

 

読書するとは、何であろうか。それは如何なる行為であろうか。知識や情報を得ることか?然り。考え方を学ぶことであろうか?然り。古の人の言行に触れることであろうか?それもまた然り。

 

しかし、上記のような感覚的経験は、厳密にはどれとも異なるものである。自ら考え、何事かを発見する、そしてそこにこれまでとは違った自分を見出す。これはいうなれば自らを問い直す行為ではなかろうか。書に描かれた人の言葉や行いの記録を鏡として自らを知る、それが古典によって得られる効用ではないだろうか。

 

勿論、生きていくうえで、新しい情報は重要なものである。特に仕事をする以上は、情報を更新していくことはしなくてはならない。しかし、それはどんどん更新されるがゆえに、使い古されてもいくものである。個々の情報そのものは普遍的ではなく、普遍的なものは情報とはまた少し別のところにある。

 

古典によって得られるものが情報ではないとするならば、何を得ているのであろうか。それは、情報と向き合うための知の在り方である。そして学ぶときの姿勢である。先に述べた自分と向き合うとは、まさにこのことに他ならない。そしてそれが刻々と変化していればこそ、古典を読むことによって感覚の変化を感じるのである。

 

情報や具体的ソリューションは、ビジネス書に任せればいい。それは移ろいやすく、多くは古典となる前に消えてゆくし、そもそもそうなることを望んでもいない。人々も己と向き合うことなど煩わしくて望んでいないのかもしれない。時たま古典がそのような読み方をされて、人をして道を踏み外させしめているように見えるのも、そういう性質のギャップによるのであろう。

 

私たちは古典の読み方、向き合い方を問いただすべきである。

(続)