備忘 根津美術館 燕子花と紅白梅展
こんばんは^^
GWも最終日となってしまいましたが、いかにお過ごしですか?
突然ですが、質問です。
「かきつばた」って花、見たことありますか?
「かきつばた」って漢字、書けますか?
私は恥ずかしながら、両方Noでした><
で、こんな感じです。
ちなみに、漢字は、燕子花。
杜若、とも書くんですね。
語源が気になる。
朝一番で美術館に着いたのですが、予想以上の盛況ぶりで、約15分待ちでした。
初夏名物のこのカキツバタがお目当てでしょうか。
違う角度から。
庭園へと下り、いつもと少し違う小径をショートカットして茶室のほとりの池へと向かうと、ほどなくして、紫色の鮮やかな一群が水辺の一角を彩っているのが目に飛び込んできます。綺麗にまとまり、凛とした存在感。睡蓮のような面持です。
言われてみれば、見たことある。
新緑の萌え盛る都会のオアシスにおいて、ひときわ明るい光彩を放っています。赤いつつじや季節のせいか品種のためか薄紅に染まる紅葉が、水辺に垣間見える。それらが映り込むようにアングルを構えてやると、鮮紫が一層映えました。
この燕子花たちの見頃は、あと一週間ほどであるという。美しいものを見つけた時に必ず伴う寂しさが、初夏の日差を横切る。
寧ろ本題の展覧会は、燕子花にかこつけたのか、
尾形光琳 燕子花と紅白梅ー光琳デザインの秘密ーと題し、二つの国宝の屏風を中心にした尾形の装飾芸術作品
春日神社若草宮所蔵の法華経を収める厨子が最初に目に入る。厨子は、玉虫の厨子以外、あまり芸術作品としてまじまじと見たことはなかった。その美しさを理解してきたかといわれると全く心もとない。
当院の尼僧が写経した600巻にも及ぶ法華経を、それぞれの番号の振られた引き出しに収める箪笥のような構造になっている。経典は巻物状になっていてその一部が展示されていたが、長大でありかつ達筆である。これほどのものをよく手作業で作り上げたものである。経典の最終巻部分に奉納した相手(公家、女官たち)や協力者である他の尼僧たちの名が記されている名簿のようなものがあった。写経に関しては何人かで分担したのであろう。それにしても驚くべき偉業であることは間違いない。
現代では、デジタル技術によって簡単に複製が可能なこれらの人間の行為は、かつては人の手と墨によって一文字一文字記されていた。私たちが見るたびに感嘆させられる美しい文字は、このような営みによって生み出されている。そこには、忍耐という、現代の私たちの感覚をもとに編み出した浅はかな言葉では到底表現できない、悠久の時間への没我のような感覚があるのではないか。
古人の偉業に触れる幸運を有しその意思をさらけ出す私たちは、余計な言葉を本当は排除すべきなのであろう。
展示室をうつり、本展の主役たる一連の屏風画を堪能する。装飾として見るほどに美しく、また不思議な幾何学的な美しさを湛えている。幻想的光景である。
特に強い印象を受けたのが、「蔦の細道図屏風」。
芭蕉の奥の細道にあやかったのであろうか、緑の蔦の絡む道が細くなりながら地平線のどこまでも続いている様を、非常に抽象的に描いている。鮮緑の色彩美しく、また倒置的模様に彩られた不思議な空間。大地が地平線へと延び、一面が緑に覆われている。それが、本作品の主題でもある蔦であろうか。
しかし、よく観ずとも、独特のデザインである。蔦の模様は細い道の部分だけに切り取られ、そこから先と上下は、まるで異世界のように一色に塗り固められている。そして画面の上部から、蔦がまた不可解にしだれ柳か何かのように垂れ下がっている。
背景はすべて黄金色。これがまた、表現しにくい装飾的雰囲気を醸し出す。自然界に存在しないのは勿論、およそ光学的に蔦の緑とは融和しないはずの色彩が、緑を抱擁し、全体を調和させている。
まるでキュービズムのような、形而下の世界とは隔絶した認知世界。それでいて西洋的な主体的で冷徹な観察眼ともどこかそぐわない、どこかに自然との融合を残していていつの間にやら見ているこちらまでそこから溶け込んでしまうような曖昧さ。別に時代の問題ではないが、この時代(約300年前)にかくのごとき作品を描いた作者の感性が心底恐ろしく感じられた。
またいうに及ばぬが、主役である二つ作品ー燕子花図屏風と紅白梅図屏風ーは、期待しているからかもしれないが迫力があった。
特に私が引き込まれたのは、紅白梅図屏風。日本の紅白梅の古樹が、最早この世のものとは思えないような妖しい存在感を醸し出しながら屏風の両側にそびえている。紅白という、極限まで簡素で抑えつつも艶やかな色合いが、これまた黄金の背景と不思議にマッチングしている。
それ以外にも、数十種類もの動植物をも精緻な描写で書き連ねた作品も多々あり、作者の虫の目も存分に感じさせられる。まるで博物学誌のイラストを参照しているようで面白い。本当はこんなに細かく描けるのに敢えて描かず染め上げる、というのが作者の粋なのであろうか。
もともと黄金系の装飾は苦手だったし、どこか偏見があって、恥ずかしながら尾形光琳も名前だけ知っているような状態であったが、今回実に鮮烈な印象を受けた。このように奇想ともいえるデザインは好悪別れるのかもしれないが、こういった足跡があることはしっかり観ておかねばらないと感じた。
とにもかくにもこんな出会いを引き寄せてくれた燕子花たちの、短い季節に感謝である。